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「峠」の理由をさがす山歩き―十文字峠と黒曜石の道

以前、「地質図で楽しむ冬の破風山」という記事で、峠ができる仕組みに触れた。硬い岩が崩れ、下にある柔らかい地層が浸食され低くなった結果、歩きやすくなり道が通ったのではないか?という読みだ。

その後、他の峠もそうなのだろうか?と気になり注目したのが、埼玉県と長野県の境にある十文字峠だ。ここは秩父の栃本から長野の川上村を繋ぐ道として意外にも最近まで(1960年代ごろ)交易路として使われていたそうだ。一方でいつごろから交易路として成り立っていたのだろう?と調べてみると少なくとも縄文時代には、霧ヶ峰周辺で産出する黒曜石が広く運ばれていたらしい。
峠の両側を荒川と千曲川という大河によって浸食され、2,000mを超える山々が連なる奥秩父にそれほど古くから峠道ができていた理由が気になる。実際に歩いてみればその理由や痕跡が見つかるのではないかと思い、十文字峠と黒曜石の原産地である和田峠・星糞峠を訪ねてみた。
正直なところ似たような興味を持つ人は多く、いくつも古道として着目した記事はあり車輪の再発明的な面はあるのだが、実際にその場を歩いてみることで文字からはこぼれ落ちてしまった感覚を拾えるのではないかという期待が大きい。
十文字峠を歩いてみる
道の起源についてのインスピレーションを得るために、まずは十文字峠に向かった。
峠越えの道としては秩父の栃本関所から川上村の梓山までの六里六丁とされていたようで、道々には一里ごとに観音像が置かれている。峠の秩父側である白泰山(二里観音)は歩いたことがあるので、今回は長野県川上村の毛木平登山口からアプローチしてみることにする。

毛木平登山口からほどなく、江戸時代の道標が残っている。元治元年(1864年)に置かれたと書かれた石像には「右ハ山道」「左ハ三峯」と彫られている。現在とは若干道筋が変わっているようだが、少なくとも幕末のころは十文字峠を越えたり、甲武信ヶ岳へ向かう道はそれなりに人通りがあったことが実感できた。


道標からしばらく行くと一里観音(栃本から数えると五里観音)があり、ここでも古くからの道であることをうかがえる。十文字峠へ続く沢沿いの道は岩がゴロゴロとしたり、雨で崩れた場所などがところどころあるものの、幅は広かったり水場もいくつかあったりと中山道の裏街道とされていたのも納得の雰囲気だ。

ここまでの道のりで中近世からの交易路としての様子はつかめた。しかし、そもそもなぜここが石器時代から道として選ばれたのか、その理由がいまいち分からないので、十文字峠から南西へ20分ほど、尾根の先へ張り出した場所にあるカモシカ展望台へ行ってみた。
尾根の先へ少し突き出した岩から西を眺めてみると、奥には雪を戴いた八ヶ岳があり、そこから足下まで千曲川が穿った谷が続いている。

ここで地質図を見てみよう。いわゆる奥秩父主稜と呼ばれる山々から始まる谷は、十文字峠に向かうものと大弛峠に向かう2つがある。いずれも稜線近くまで幅の広い谷が続いているが、地質図を眺めると秩父へ向かうのに十文字峠を選んだ理由が浮かんでくる。
大弛峠へ向かう道は甲武信ヶ岳も金峰山も硬い花崗岩に覆われている一方、十文字峠を越える道は栃本に至るまでほとんどが浸食されやすい砂岩でできた場所を通っているし、等高線を見ても高低差の少ない場所を選んでいる。
実際に歩き、山の上から地形を眺め、地質図と照らすことで歩きやすい場所がなるべくして道となっていることに納得した。道ができた理由はこれでわかったので、次は道具の産地から見てみることにしよう。
黒曜石の産地を歩いてみる

さて、峠の方からその成り立ちを見てきたが、今度は逆に黒曜石の産地側から見たらどうなのか?を探っていきたい。十文字峠越えの道を運ばれたのは、霧ヶ峰北側の和田峠から星糞峠あたりから産出した黒曜石ということなので、和田峠から鷲ヶ峰を歩いてみることにした。
ここは中央分水嶺トレイルの一部となっている登山道で、富士山から北アルプスまでを一望できる気持ちいい尾根歩きが楽しめるのだが、この日はひたすら地面を見て歩く。登山道脇の地面が抉れたところなどに露出していることもあるという情報も見かけたが、足下に転がるのは軽石ばかりでなかなか見つけられず……

なかば諦めかけたところ、足下にフチがキラキラと光る黒い石が埋まっていた。掘り返してみるとまさにイメージ通りの黒曜石の原石だ。あると知っていて見つけているのだから答え合わせをしているようなものだが、実際に見つけるとそれだけでも十分に心が躍る。
黒曜石を見つけたからといって、そもそもの目的である「なぜここから十文字峠を目指したのか?」の理由にはまったく近づけていない。木や動物の骨と黒曜石を組み合わせた石器と土器ぐらいしかなく、今のような正確な地図があったわけでもない時代になぜ?と感じていたが、その答えは鷲ヶ峰の山頂に着くとなんとなくわかった。

山頂から東を望むと佐久の平地の先に大きく山並みが切れたところがふたつある。碓氷峠と内山峠だ。十文字峠は写真右側にある蓼科山に隠れて見えないが、生活圏を広げていく先に聳える山があり、さらにその先へ進もうとすれば歩きやすい場所を求めて峠に辿りつくのだろうという思いが実感を伴って押し寄せてくる。
地図や文字による記録はなかったとしても、秩父までは歩いて数日の距離だ。山の向こうにも人の住める場所があるということは伝わっていただろうし、それぞれの場所の特産を交換しようというコミュニケーションも生まれただろう。そんな暮らしの中で効率を求めていくと、自然と歩きやすい場所が見つかり峠道となる。
正確なことは、タイムマシンでもなければ確かめようがない。けれど、十文字峠から千曲川の谷を見下ろし、和田峠から佐久の平地を眺めると、道は人が地図の上に引いた線ではなく、地形に導かれながら少しずつ踏み固められていったものなのだと感じられた。
黒曜石を運んだ人々も、最初から「交易路」を歩いていたわけではないのだろう。水をたどり、谷を選び、越えやすい鞍部を見つけ、その繰り返しの先に、いつしか道と呼ばれるものが生まれた。
「峠」の理由をさがす山歩きは、ひとまずここで満足することにした。


